モノノケ怪異譚

 これは僕が大学生の時の話だ。
 僕はその時初めて幽霊というものを見た。
 それ以降の人生で一度も見ることがなかった怪異。
 彼女が僕の目の前に現れたことで僕には一つ未練が生まれてしまった。
 だから今僕は、間際だというのに筆を執る。


 あれは僕が大学に通うため、札幌に出てきて。たしか一年もたたない頃。
 そうだ、その時僕は大学一年生で大学一年ってさ、高校に上がるときより一気に視野が広がるから、日々が輝きに満ちてて、毎日楽しかったんだ。
 例えば授業は自己責任で休んでOK。
 余した時間の使い方は自由。
 お金の使い方も自由。
 特に親元から離れた生活なんて初めてだったからはしゃいじゃって。
 夜通し友達と遊んだり、お金がなくなってひもじい思いをしたり。
 サークルに、イベントにテストに。
 全速力で走り抜けるといつの間にか夏休みになっていた。
 僕は大学最初の夏休みを大学で過ごしたかったから実家には帰らなかった。

 そうだ、思い出してきたぞ。だから僕は彼女と出会ったんだ。

 その日。僕らはサークルの一学期お疲れ会で遅くなって。
 カラオケに泊まる選択肢はあったけどベットが恋しくて恋しくて。
 近くのマンションに住んでいた友達Tと一緒に、深夜三時ごろ歩いて家に帰ったんだ。
「A子すごい乳だったな」
「溢れんばかりだったよな」
 そんな男子特有の馬鹿な話を道すがら魚に。安い酎ハイを片手に帰った。
 僕の部屋はマンションの三階だ。
 エレベーターもないようなぼろマンションだけど、寝に帰るには上等で。
 その日もTとマンション入り口で分かれて、階段を上って、部屋の前に立ち、流れるような動作で腰のキーケースから鍵を取り出す、そして部屋の扉を開けた。
 直後、僕の体温がすっと下がったのが印象深くて覚えてる。
「え?」
 冷たい風が吹き寄せてきて、そんな風に声を漏らすくらいにはっきり。世界が変わるように。
 実感した。
 これはまずいって。
 でもさ、人間ってイレギュラーが起きてもいつもと同じように生きようとしちゃうものなんだ。行動しちゃうもんなんだ。
 だから僕は、寒くなりながら靴を脱いで、鍵をかけて。廊下を抜けて。
 そして寝室の扉を開いた。

 いた。

 そこにいた。
 幽霊。
 なんで幽霊だってわかったのかって?
 浮いてたから。足が空中でぶらぶらって。
 ほかにもぼさぼさのかみ。うつむいた顔はその髪で見えず。
 そんなの幽霊以外考えられないだろ?
 白いワンピースは風もないのにふわりと舞って。
 何かがきしむような音が、ぎしって。なった。
「でたああああああああ!」
 僕は駆け出す。
 途中、昨日磨き上げた廊下の輝きに足を取られて転んだから、四つん這いのまま玄関へ。
 開けにくいのにも関わらず両手でドアのカギをガチャガチャやって、やっとのこと家から脱出。
 そのまま階段を駆け降りる。
 背中から汗が噴き出てるのに全身寒かった。
 歯の根がかみ合わないくらいにカチカチカチって。
 震えてた。
 僕は階段を降り切るとその場で足踏みする。
 僕は、僕はどうするべきなんだ?
 警察?
 いや、でもだってあれ幽霊だし。警察に頼っても無力だろ。
 だったら幽霊問題はだれに頼ればいいんだ?
 お寺?
 そもそも僕はこの後どこに行けば。
 もうかなり疲れて眠たいのにベッドは幽霊に占領されたままだ!
 そこで僕は心強い友人Tのことを思い出す。
 何となくすかした奴で普段っからポーっとしてる男だけどこんな時頼りになる気がする。
 安定しているというか、常に予防線を張っているというかなんというか。ミスだけはしない男だ。
 そんな彼の家に泊めてもらおうと僕はスマホを取り出した。
「T! ごめん! 泊めて!」
 開口一番告げる僕の言葉にTは確かこういった。
「やだ、ねろ。おやすみ」
 そっけない、かなりそっけないTなのだが押しに弱いのはこの数か月でよくわかってる。
「家で寝らんないんだよ、でたの幽霊!」
「あーー、そうね、幽霊。得したな、お休み」
 何が得なもんか! 
 幽霊が出て損したことばかりだわ! 
 例えば寝床が奪われたし、時間も取られた。びっくりしたし、それに……。えっと。
 すでにむだな汗かいてる。 僕の汗返せ幽霊!
「ほんと! 信じて、マジでいるんだって、幽霊。浮いてるし」
「幽霊は浮くんじゃなくて足がないんじゃないっけ?」
 そうだっけ?
「とりあえず助けてくれよ、幽霊いたら家入れないって」
「警察よんで逮捕してもらえよ」
「無理だよ、幽霊だよ!? 警察の人殺されちゃうよ」
「…………」
「泊めてよT」
 今思い返してみれば僕の言論はなんというか、果てしなく馬鹿っぽかった。
 よくこんな僕の話まじめに聞いてくれたなT。
 でも次の瞬間放たれたTの言葉は僕が望んていた言葉ではなかった。
「わかった行くよ」
「行くってどこに?」
「おまえの部屋」
「僕の部屋? なんで?」
「お化けなんてないさって証明するため」
 そんなこんなで五分後。朝と夜のはざまの微妙な暗さの中ウィンドブレーカーに身を包んだTが僕に走り寄ってきた。
「T、ごめん、来てくれてうれしいけど僕はきみの家に泊めてほしくて」
「俺は嫌だからお前の家に一緒に行ってやるよってこと」
「絶対行かないほうがいいって」
 僕はTを止めた、Tが死ぬところなんて見たくないからだ。
「幽霊なんて見間違いだって。ほら。いくぞ」
 そんな僕の優しさも知らないでTは僕の部屋を目指して突き進んでいった。
「T! いたずらにいのちを危険にさらすな!」
「いや、そんなこと言われてもな」
 Tはすでに面白半分だった。
 怪談を上る最中にスマホのカメラを起動して撮影するつもりだ。
 こんな騒ぎを起こした僕をサークルでいじり倒すつもりなんだろう。
 でもその考えが仇とならないことをその時の僕は祈っていた。
 扉の前にTが立つ、鍵は開いてる。
「T死ぬなよ」
「死ぬときは一緒だぜ」
 振り返って僕に微笑みかけるT。
「やっぱ僕も行かないと駄目な流れか!」
 そしてTは僕の部屋の扉をあけ、廊下を抜け、寝室へ。僕は玄関で待機した。
 万が一Tが悲鳴を発したら逃げるためだ。
「なんにもいないじゃん」
 そう告げるTを信用して寝室の中に入る僕。
「嘘だよ! いるよ!」
 女性がいた。まだ揺れていた。表情は相変わらず見えない。
 まだ部屋が寒かったからいるかもとは思ってたけど!
 なんでTは見えないんだよ! 
 その時はそう思った。
「この後に及んでまだからかおうとするのか?」
 Tが怪訝そうにいった。本当に見えてないみたいだった。
「いるよ!」
「いないよ?」
「いや、いるってば、見えないの?」
「見えないもなにも、いないって」
「違う。本当に要るんだって。僕のベットの目の前に」
 僕は両手でその女性の輪郭をなぞった。
「嘘ついてる感じじゃないなぁ」
 そうTがつぶやくと僕はうれしくなった。
「信じて!」
「あー、まぁ信じてみるか」
 やった、信じてもらえた!
 でも今思うと僕を黙らせるための方便だったのかもしれない。
 そう緊張感のかけらもなく告げるとTはそのまま前に、つまり幽霊方向へ歩き出すT。
「ちょとまてよT、それいじょう行ったら」
 ぶつかる、そう言い切る前にTは女性をすり抜けてしまった。
 実感した。やっぱりこの人は幽霊。
「うーん、やっぱ俺は何ともないな。おれが何ともないんだからお前も何ともないんじゃね」
 つまらなさそうにスマホをしまうT。そのままUターンして彼は玄関に直行した。
「まって! まってまってまって! 問題はまだ解決してないの!」
「問題なんてないって」
 やっぱ信じてないなT!
「あるよ! 女の人が浮いてるんだぞ! 怖いだろ普通に!」
「女の人なの? ラッキーじゃん、パンツ覗いとけ」
「そんなことしたら殺されちゃうよ!」
「殺される殺されるってさっきから言うけどさ」
 玄関で靴を履き終わったTは振り返って、まじめな表情で僕に言った。
「幽霊って全部そんなんじゃないからね」
「は?」
 何言ってるんだこいつ。
「幽霊は生きてる人に何かわかってほしいことがあって出てくるだけで、お前を殺したいってことないからね」
 なんだ、なんでTはいきなりこんなわかった口をきくんだ。
「お前がその人になんかしたならはなしは別だけど」
「え、Tまって、泊めて」
「なにか伝えたいことがあるんだって、もうちょっとその幽霊とやらと対話してみろよ、なんかあるかもしれないぞ」
 告げるとTは扉を閉めてしまった。
 これで僕は幽霊さんと二人きりだ。
「どうしよう」
 僕はただただ立ち尽くすしかなかった。
「幽霊さん」
 何か伝えたいことがあるって?
「だったらもう」
 サクッと伝えてサクッと消えてくれませんか。
 そう心の中で唱えながら僕は膝をついた。

   *   *

 結論。僕はお風呂場で寝た。
 なんでお風呂場か。
 なんでだろ。
 一応足伸ばせたし、硬かったし。守ってくれそうだから?
 今考えると逃げ場はないし、体はバッキバキだしいいことなかったな。
 ちなみに寝て目覚めても幽霊さんはいた。
 午後13時。八時間睡眠。
 さすがにこのころになると僕は冷静さを取り戻し、幽霊さんに近づくことはできないけど気が動転することはなくなった。
 例の肌寒さも夏の暑さと相殺していい感じかも、お金ピンチだったから冷房節約だ。よかったよかった。
「よくないって! T!」
 僕はその後家から飛び出してTに泣きついた。
 Tはちょうどお昼ごろで、僕が泣きついてくるのを予測していたみたいで。チャーハンだけだったけどご飯を食べさせてもらった。
「あれからちょっと調べたんだけどさ」
 僕の泣き言を無視してTは話を切り出した。
「幽霊って死んだときの状況の影響をもろに受けるんだってね」
「どういうこと?」
「幽霊さんの外見は死体と同じ可能性が高いってこと」
「ん?」
 だから何だというのだTよ。
「加えて、幽霊さんは微動だにしない」
「うん」
「俺が通過したときもそうだね?」
「うん」
 確かに、Tが幽霊さんの中を通ったとき。幽霊さんは動きを見せなかった。
「死んだときにはもう体を動かせなかったんじゃないかな」
「なるほど?」
「さらにだ。あのタイミングで幽霊さんが出てきて、朝になっても消えないのには意味があるはずだ。お盆でもないし」
「気が早かったとか?」
「一足先にお休みがもらえたから、ちょっと早めに実家に帰ってきちゃったって? ないだろ。だいたいお前の部屋に出る意味が分からない」
「遺族が住んでたとか。あの人が死んだ部屋だったとか」
「それはありうる。なかなか思考が追いついてきたじゃんか。そうだよ。重要なのはあの部屋になぜ出たか。そしてなんで死んだかだ」
「え? ちょっとまって、T何言ってる?」
「助けてやろうと思って。たぶんこの調子だとずっと居座るぞ」
 僕はこの時、Tに天上の感謝をささげた。でもこの後すぐにその感謝を撤回することになる。
「人間はかってに死んだりしない、原因がどこかにある。そしてその原因は必ず突き止めることができる。だったらまず必要なのは調査だ」
「うんうん、それで?」
「いや、それでじゃなくて、調べることができるのお前だけじゃん」
「ん?」
「だから、死人の体を調べればなんで死んだかわかるし、なんで死んだかわかれば対処のしようがあるから、幽霊が唯一見えるお前が」
 嫌な予感がし始めた。
「今から家帰ってその幽霊調べて来いって」
「はぁ!?」
 Tが飛び上がるほどの声を僕は出してしまった。
「むりむりむり。そもそも殺される」
「だから、幽霊全部殺し目的で出るわけじゃないって。いままでピクリとも動いていなんだろ? だったらその幽霊そもそも動けるのか?」
「知らないよ!」
「それを調べるのもお前の役目だって。安心しろ、死んだら骨は拾ってやるから」
「死んだ後じゃ何もかも遅いんだよ!」
 最後に僕は、Tになんとしてでもついてきてもらおうと思ったんだけど、この後就活だからって断られた。
 就活なら仕方ないよね。
 僕はそうして家に戻る。
 相変わらず幽霊がいるのか部屋は涼しい。
「消えては、いないよね。そりゃ」
 寝室の扉を開けるとやっぱりそれはいた。昨日と同じようにうつむいて。体は宙に浮かんでる。
 ただ、落ち着いたのか、見慣れたのか。はたまたこれからやろうとしていることを思えば怖気づいていられないだけなのか。昨日の僕よりは余裕をもって幽霊さんと対面できた。
 幽霊さんは相変わらず微動だにしない。わずかに体が揺れている。
「揺れてる?」
 そういえば幽霊さんは動かないけど揺れていることは多い。体全体がミノムシみたいにプラプラと。
 あとは足がピンっとまっすぐだ。
 これは死んだときに何かあったからなのだろうか。
 僕はさっそく調査を開始する。雰囲気を出すために学校でもらったぴっちりしたゴム手袋みたいなのをつける。
「急に動かないでね」
 おそるおそる近づく僕そういえば、まじまじと見るのは初めてだけど。幽霊さんスタイルいいなぁ。
 服は白いワンピースだけど、ところどころしわくちゃであまりきれいじゃない。
 でも髪をとかしたなら結構な美人さんなんじゃないだろうか。まぁ顔はまだ見てないので何とも言えないんだけど。
 僕は続いて後ろに回った。
 つま先から踵。お尻に背中とみていく。
 異変はない。というかこれどうやって死んだんだ。
 僕はそこで考え込む。
 死ぬってどうやるんだっけ?
 刺されるとか、落ちるとか。毒?
 そこで僕はTから渡された幽霊さんを見るときに気を付けないといけない箇所のリスト。つまり死因チェックリストを広げた。
 外傷 なし。
 腕や足に斑点 なし。
 その時僕は幽霊さんの手を取った。Tはすり抜けていたのに僕は触れる。
 すごく冷たかった。部屋も冷たくなるはずだ。
 服に特徴的なあと なし。
 なし、なし。
 僕は次々とTのチェックシートを埋めていく。途中で何か引っかかる項目があればよかったのだけど。幽霊さんの体に特徴的なあとは何もなかった。
 となると次に調べなければならないのは首から上だ。
 そう僕が視線をずらしてみると。

 幽霊さんと目があった。血走った目で僕を凝視してる。

「ひっ」
 僕は思わず息をのんで後ずさった。その目があまりにも力強くて直視していられなかったから。
「やっぱり僕を呪い殺すつもり?」
 それでも幽霊さんには動きがない。
 ただ、それ以来目を意識してしまって動けない。
 不思議と、あのクシャクシャな髪の向こうにあるはずの目玉を意識してしまって、なぜか幽霊さんがこっちを見ていることがわかってしまった。
 つまり幽霊さんの視線を追えるようになってしまった。
 物言わぬ幽霊さんは僕をじっと見つめてる。血走ったその目で、幽霊さんは僕をじっと見ている。
「怯えてばっかりもいられないよな」
 ぶっちゃけ慣れてきた。
 僕は小さな足場を用意して幽霊さんの後ろに回る。
 さすがに目玉が百八十度回転して僕を見たりはしないだろう。そう思っての行動だったけど、思わぬ収穫があった。
「あ、傷だ」
 首の周りに傷があった。太いロープかな? それで絞めたような跡がくっきりと。
 それが首を巻くような形で残ってた。
「うわ!」
 その時僕は体制を崩して後ろに倒れこんだのを覚えている。足場が揺れてそして僕は空中に投げ出された。
大きくしりもちをつく僕。
 でもこれで一つ分かったことがある。
 それは幽霊さんがなんで空中にとどまっているかの理由。
 僕はそれをTに報告した。するとTは僕の予想と同じ答えを返してくれる。
「死因は自殺だな。首で天井からぶら下がってるから足が浮いてる。足が伸び切ってるのは筋肉が脱力したからだろうな」
 やっぱりか。僕はそう悲しいような、寂しいような気持ちを抱く。
「幽霊さんなんでそんな」
 僕は思わず視線をふせた。幽霊さんのことはもう怖くなくなっていた。
 代わりにかわいそうというか、何とかしてあげたい気持ちになった。
 でも、もう死んでるから僕には何もできない。

 僕は無力だ。

「でもだったらなんでこっちのことあんなすごい視線で見てくるんだろ。僕の部屋に出た理由もわからないし」
 すこし考え込んだTはすぐにこう問いかけてきた。
「お前部屋の隣って人住んでないよな」
「うん」
「てかお前のマンションすかすかだよな」
「下に一人住んでたと思うよ」
「そうか、やっぱり。さすがに酷だから明日。お前の家行くわ」
「酷? なにが? Tなにがわかったの?」
「ぜんぶ謎はとけた。あとは種明かしするだけだ」
「今してよ」
「明日にするよ、種明かし」
 Tは次の日の朝。ロープをもって僕のもとに現れた。
「そのロープ何に使うんだ」
「これさ、ここに括り付けて下におりるんだ」
 手際よくTは僕の家のベランダ、その欄干部分にロープを括り付けていく。
「なぁ、これからどうするんだよ、教えてくれよT」
「確かに何も知らずに今から見るもん見たらお前はだめそうだよな」
 そう勝手に一人で納得してTは語り始める。
「あの幽霊がここに出た理由。そして幽霊の死因。全部整理するとたぶんこれしか正解ないんだよ」
「出た理由? 僕に恨みがあるから?」
「恨みがあるならもうお前に何か悪いことが起こってないとおかしいよ」
 幽霊さんが出るってもう十分悪いことなんだけどね。
「幽霊が出るのは何も恨みがあるとかそんな理由だけじゃない。助けてほしかったり、未練があるから。こっちのほうが圧倒的に多い」
「未練?」
「幽霊さんの首には縄の跡がついてたんだろ? で体は動かない。首吊り自殺ってさ首が閉まって酸欠で死ぬイメージがあるけど、体重や力の入り具合で首を骨折するんだ、脊髄が損傷する、そうすると」
 Tはロープを引っ張って緩まないか引っ張ってたしかめてから告げる。
「首から下は動かなくなるだろ?」
「それはいいよ、自殺だってのはわかった、それと今のTが何か関係があるのか?」
「体がうごかないから、幽霊さんはずっと首が閉まったままなんだ。それってすごいきついと思うよ。……よし、降りて」
 僕にロープを手渡してくるT。
 意味がわからないので僕は話を続ける。
「確かにずっと首が閉まったままはつらいと思うよ、それこそ何度も死ぬみたいな気持ちを……ってなに?」
 僕の手に無理やりロープを握らせるT。
「降りるぞ」
「降りるって下の階に?」
 驚き、拒否る僕を力づくで下ろしたTは手際よく窓ガラスを割って侵入する。
「起こられるって!」
「大丈夫だよ警察には捕まらないからさ」
「え? なんで?」
「訴える人がいないんだから」
 鍵を開けて中に入ると、冷気が吹き寄せてきた。
「どういうこと?」
「うすうす感づいてるんだろ。お前の部屋に出た理由。つまり現場が真下だったってことだ」
 僕は耳につくエアコンの音を振り切って寝室の扉を開ける。
 そこには
「そう、幽霊さんはおまえの家の下に住む住人、その首つり死体だってことだ」
 僕は思わず立ち尽くして、何も言えなかった。
「今度は俺にもはっきり見えるよ」
 Tは手近な椅子を片手で持ち上げると俺も同じように椅子を探すよう促した。
 それを部屋の真ん中に並べて立てて、僕たちはいっせーのでその体を持ち上げる。
 女性の体は重かった。ロープを切り落とすことも考えたけど。それはかわいそうだからやめた。
 首に跡がついた。陶器みたいに真っ白な女性の死体。それがベットの上に置かれることになった。
「警察に連絡するから、お前いったん家戻れよ」
「僕だけ戻るわけにはいかないよ」
「いや、本当に幽霊さんが伝えたいことがこれかわからないから、消えてればほかにやることはないけど……だからさ」
「うん」
 僕はTに頷きを返して幽霊さんの家を出る。
 あの日を思い出しながら階段を上る。
 飲み会から帰ったあの日。
 最高に楽しい気持ちを抱えて帰ったあの日だったけど、こんな近いところで人が死んでたなんて。
 想像もしてなかった。
「消えてる」
 冷気が逃げてしまったのか、特に冷えてもいない寝室にはもう幽霊さんは居なかった。
 僕はその時すべてを理解することになる。
 苦しかったんだ。
 幽霊さんは死んだけど苦しくて、誰かに助けてほしくて、僕を頼ったんだ。
 苦しい世界から飛び出して、それでも幽霊になるくらい苦しい思いが続くなんて。
 この世の中、なんて救いがないんだろう。
「幽霊さん」
 僕の家に表れて僕にSOSを送り続けた幽霊さん。
 僕は思い出す、昨日見た幽霊さんの目は僕に対する恨みじゃなくて、必死に僕に救いを求めるそんな瞳だったんだ。
「でも、死んでからじゃさ全部遅いよ」
 僕は泣いてたと思う。
 誰もいない、男の部屋で、立ち尽くして泣いてたと思う。
「幽霊になる気合があるなら、その前に助けを求めてほしかったよ」
 幽霊さんが死んだことが悲しかった。
 いや、正確には僕の前に出た時点で死んではいたんだけど。
 でも、それがなんだというのだろう。
 彼女はもう死んでしまって戻ってこないのだから。

 その後僕たちは警察に取り調べされたり、不法侵入で怒られたりした。
 解放されたのは夏の暑さもちょっとましになる夕方ごろで僕らは無言で歩いて家に帰った。
 そのうち夜になった。
 僕のマンションの前でTとは別れて、家に戻る。
 途中の階で顔を出して幽霊さんの部屋を見たけど。警察がよく貼る黄色いテープはなく。
 普通に誰か暮らしてそうなマンションの一室だった。
 僕は自分の部屋に戻る。
 久しぶりに飛び込んだ僕のベットは冷たくて、幽霊さんの温度を思い返させた。

   *  *

 あれから数年。僕は大学を卒業し、社会にでて次第にあの夏のことを思い返す機会はなくなっていった。
 でも今回のことをきっかけにふと思い出して。
 僕が同じように幽霊になったときは助けてほしいなと思ってこれを書いてる。
 ごめんT、たぶん一番迷惑をかけるのは君だと思うけど、どうか僕が道に迷ったとき。
 あの日のように助けてほしいと思う。
 それは僕の勝手な願いだろうか。
 
 僕は筆をおいて、椅子を上る。深呼吸して縄をくぐりそして椅子をけり捨てた。
 それが僕の一生の終わり。
 僕の語り残した、これは、未練と呼ばれるべきお話。